過去

シャトー・ラトゥールの農園は、当地方の歴史の中心にあり、過去を知ることは今日シャトーが得ている名声がいかに確立されたかをより良く理解するまたとない機会となるでしょう。何世紀もの歳月保存されてきた膨大な古文書資料のおかげで、かなり詳細に及ぶ時代を超えた旅が実現可能となっています。類い稀なるこの歴史遺産からは、何世紀にも及びシャトーおよび職人たちの生活が異例なほどに安泰し継続性のあるものであった事実が確認でき、それは同時に他に類をみないワインの質の安定性を立証するものでもあります。]]>

過去

ラトゥールの名が記された最古の資料は1331年に遡ります。サン・モーベール教区内に防衛機能付きの塔を建設するため、ポンスの領主からゴーセルム・ド・カスティヨンに与えられた許可状です。 その後シャトー・ラトゥールは1378年ジャン・フロワサールの『年代記』に登場します。百年戦争のまっ直中、河口を守る要所であった「サン・モーベール塔」はフランス王側に立つブルトン兵によって防備されていました。しかし3日におよぶ攻囲の後、アングロ・ガスコン軍が塔を奪取し、そこを駐屯地としました。 16世紀末までラトゥールは複数領主の共有地で、複数土地所有者が小作人らから土地使用料を徴収していました。その当時、ブドウ畑は農園の一部でしかありませんでしたが、既に余剰生産が発生していました。ワインの保存環境は当時まだ不安定で、生産年内に消費されるべき飲料でした。17世紀末まで農園はミュレ家の経営下に置かれ、小作制度から直接経営への段階的な転換は進みましたが、ワイン生産にはほとんど変化は見られませんでした。 度重なる相続および婚姻により、ラトゥールはアレクサンドル・ド・セギュールの所有地となりました。ルイ15世から「ブドウ畑の王子」とあだ名された人物です。セギュール家の登場とともにワイン生産の偉大なる歴史が幕を開けます。 アレクサンドル・ド・セギュールは亡くなる直前の1716年、ラフィットを購入しています。1718年には彼の息子でボルドー高等法院院長の官職についていたニコラ・アレクサンドルがムートンとカロンを取得し、農園拡大をおし進めました。 18世紀初頭のイギリスにおいて、洗練された趣味・嗜好を持つ貴族階級および富裕ブルジョワ階級の台頭が見られました。彼らはボルドー、ポルト、ヘレス、あるいはその他南方ワイン産地の上質ワインを惜し気もなく消費しました。何度となく繰り返された戦況下では様々な貿易封鎖が強いられ、休戦を境にそれまで制限されていたボルドーワインの輸出事業は瞬く間に活気を取り戻しました。新たな経済情勢により、メドック地方ではブドウ畑の拡大とともにその構成にも変化が見られ、地元法服貴族やブルジョワはますますワイン生産に関心を持つようになりました。ラトゥールのような優良ワイナリーのワインは品質面でも価格面でも瞬く間に他に抜きん出ます。1714年当時、ラトゥールの樽はボルドーの一般的ワインの4〜5倍で取引されていました。1729年時点では13倍、1767年には20倍の倍率でした。この頃すでにシャトー・ラトゥールのグラン・ヴァンは高い評価を確立していたのです。 このような好況を受けて、1759年には38ヘクタールだったブドウ畑は、1794年には47ヘクタールへ広げられ、徐々に農園はワイン生産に特化し始めます。当時はほとんどの場合土地所有者が農園を管理していたため、他に類を見ない豊富な古文書資料と同じく、シャトーの職人たちの暮らしを知る手がかりとなる大変興味深く時には笑いを誘う小話が数多く現在まで残されています。 フランス革命時も困難な中でも所有農地そのままを守りきることに成功し、とりわけそれまでと変わらぬ一族によって経営が存続された点は特筆に値します。1842年、度重なる相続で共同経営者の人数が膨れ上がったため、民事会社の形態が採用されました。この会社組織は1962年までセギュール家末裔のみで構成されていました。しかしあまりの共同経営者の数に結果一族持ち分の大半が売却され、イギリス資本の金融グループ、ピアソン社が全体の53%の株を取得し筆頭株主となり、ハーヴェイズ・オブ・ブリストル社(のちにアライド・ライヨンズ社によって買収される)が25%の持ち分を得ました。 1989年、アライド・ライヨンズ社はセギュール家後継者らのもとに残る7%以外のピアソン社の持ち分を買収し、持株比率93%となりました。1993年6月、フランソワ・ピノー氏は自らのホールディング会社アルテミス社を介してアライド・ライオンズ社の持株を買収。30年にわたるイギリス資本による経営ののち、再びシャトー・ラトゥールはフランス資本に戻りました。