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シャトー・ラトゥール | 01.創造の時間 - 1331年以来

1331年以来

歴史のはじまり

シャトー・ラトゥールは、常にこの地方の歴史の中心にありました。過去を知ることは、シャトー・ラトゥールがいかに今日の名声を得てきたか、その過程をさらに深く理解する絶好の機会となります。数世紀にわたって大切に保存されてきた膨大な古文書。これら資料は、時代を超えた、ディテールに満ちた旅へと我々をいざないます。この貴重な歴史遺産から、シャトー・ラトゥールおよびシャトーに従事する職人たちの生活が、何世紀もの間、驚くほど安定し、かつ、継続性のあるものであった事実が読み取れます。それは同時に、ワインの品質の類まれなる安定性を立証するものでもあるのです。

ラトゥールの名が登場する最古の文書は1331年に書かれています。それは、サン・モーベール教区において防衛機能が備わった塔を建設するにあたり、ポンスの領主がゴーセルム・ド・カスティヨンに与えた許可状でした。 その後、1378年、ジャン・フロワサールの『年代記』にもシャトー・ラトゥールは登場します。時は百年戦争真っ只中。河口を守る要所であった「サン・モーベール塔」は、フランス王側に立つブルトン兵によって防備されていました。しかし、3日にわたる攻防の末、イングランド・ガスコーニュ軍が塔を奪取。そこを駐屯地とします。

歴史の礎

16世紀末まで、ラトゥールは、複数の領主が支配する相給地でした。つまり、複数の土地所有者が小作人らから土地使用料を徴収していました。当時、ブドウ畑はドメーヌの一部でしかありませんでしたが、すでに余剰生産が発生していました。ワインを保存する環境はまだまだ不十分で、醸されたその年のうちに消費されるのが常でした。ラトゥールは17世紀末までミュレ家の経営下に置かれ、小作制度から直接経営へと徐々に転換が進みましたが、その時代、ワイン生産に画期的進歩は見られませんでした。
度重なる相続および婚姻により、ラトゥールはアレクサンドル・ド・セギュールの所有地となります。アレクサンドル・ド・セギュールはメドック地方のドメーヌを多数買収。瞬く間に一大勢力を築きます。セギュール家の登場とともにワイン生産の偉大なる歴史が幕を開けます。アレクサンドル・ド・セギュールは亡くなる直前の1716年、ラフィットを購入しています。彼の息子ニコラ=アレクサンドルはボルドー高等法院長の官職についており、彼こそ「ブドウ畑のプリンス」との異名をとった人物です。1718年、ニコラ=アレクサンドルはさらにムートンとカロンを取得し、所有地拡大をおし進めました。

発展の時代

A18世紀初頭のイギリスでは、洗練された趣味、嗜好を持つ貴族階級および富裕ブルジョワ階級の台頭が見られました。彼らはボルドー、ポルト、ヘレス、あるいはその他南方ワイン産地の上質ワインを惜しみなく消費しました。何度となく繰り返された戦況下では様々な貿易封鎖が強いられ、休戦を境にそれまで制限されていたボルドーワインの輸出ビジネスは瞬く間に勢いを取り戻します。新たな経済情勢により、メドック地方ではブドウ畑の拡大とともにその構成にも変化が見られ、地元法服貴族やブルジョワのワイン生産に対する関心はますます高まります。ラトゥールをはじめ、優良ドメーヌのワインは品質面でも価格においても他に抜きん出ます。1714年当時、ラトゥールの樽はボルドーの一般的ワインの4〜5倍で取引されていました。1729年時点では13倍、1767年には20倍の倍率でした。この頃、シャトー・ラトゥールのグラン・ヴァンはすでに高い名声を誇っていたのです。

このような好況を受けて、1759年には38ヘクタールだったブドウ畑は、1794年には47ヘクタールにまで広げられ、徐々に農園はワイン生産に特化し始めます。当時の農園管理者たちと土地所有者たちとの間では極めて定期的に書簡が交わされており、シャトー・ラトゥールに従事する職人たちの暮らしを知る手がかりとなる、大変興味深く、時には笑いを誘う小話も含まれ、大変貴重な資料として現在まで大切に保管されています。



フランス革命をはじめ、困難な時代においても、所有農地を元々の形のまま守りきることに成功し、常に同じ一族によって経営が存続された点は特筆に値します。1842年、度重なる相続で共同経営者の人数が膨れ上がったため、民事会社の形態が採用されました。この会社組織は1962年までセギュール家末裔のみで構成されていました。シャトーは極めて良好な運営環境を享受し、1855年には第1級格付を受けた無類のテロワールを有しています。同級にはラフィット・ロートシルト、マルゴー、オー・ブリオン、1973年以降、ムートン・ロスチャイルドが名を連ねています。時代が進むにつれ、相続者の多くが持ち分を売却。そこで、イギリス資本の金融グループ、ピアソン社が全体の53%の株を取得し筆頭株主となり、ハーヴェイズ・オブ・ブリストル社(のちにアライド・ライヨンズ社によって買収される)が25%の持ち分を得ました。

1989年、アライド・ライヨンズ社はピアソン社の持ち分を買収し、セギュール家相続者らのもとに残る7%を除き、持株比率93%となりました。1993年6月、フランソワ・ピノー氏は自らのホールディング会社アルテミス社を介して、アライド・ライオンズ社の持株を買収しています。

新たな時代

1993年から今日までの数年間、フランソワ・ピノーの指導のもと、シャトー・ラトゥールが生み出すワインのさらなるエクセランス(秀逸性)向上を追求し、数々の大規模改革を推し進めてまいりました。
1998年には、1995年から同ドメーヌ運営に参画してきたフレデリック・アンジュレを支配人に任命。1999年11月から2003年9月まで、大規模設備工事を実施。醸造庫、樽貯蔵庫、醸造システムおよびストックスペースを全改築することで、ワイン生産の精巧度がさらに高まりました。同時にテクニカルチームも新しく結成しました。2012年には、プリムール取引を中止する決定を受けて、作業スペースを拡張する工事とともにボトル熟成用ワインセラーを増築しています。

フランソワ・ピノー


フレデリック・アンジュレが統括する中で、ドメーヌ技術部門ディレクターにエレーヌ・ジュナンを迎えました。醸造責任者ピエール=アンリ・シャボおよび栽培責任者ドミンゴ・サンチェスとの協力体制で作業にあたっています。共通理念は、常に完璧を追求すること。ブドウ畑同様、蔵においても、シャトー・ラトゥール70名のスタッフによる努力が重ねられています。新技術の導入を検討する際には、その妥当性を的確に判断するため、実験的試みを無数に繰り返します。ビオディナミ関連であったり、トレーサビリティ管理の新システムであったり、精緻さ、さらなる品質追求、環境保全、そして新たな問題点の解決を念頭に、我々は日々たゆまぬ研鑽を重ねています。

フランソワ・ピノー


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